STORY

コーヒーハウスの前身、イスラム世界で広まった「カフェハネ」

イスタンブールの豪華なカフェハネを描いた19世紀の版画(「Intérieur d'un café public, sur la place de Top-hané」The New York Public Library蔵)
 

ヨーロッパでコーヒー店が大流行したのは、17世紀半ばのイギリス。「コーヒーハウス」と呼ばれて男性の社交の場としてロンドンでは、社会的に大きな役割を果たしました。

一方、世界で初めてコーヒーを飲むための専門店は、1500年ごろにメッカで生まれたといわれます。

「カフェハネ」(コーヒーハウスと同義)と呼ばれ、男性のみ、アルコール禁止というカフェハネの慣習は、イギリスのコーヒーハウスにも受け継がれました。

イエメン、そしてイスラム世界でコーヒーとカフェハネは、15世紀から16世紀にかけて広まっていったのです。

イエメンから広まったコーヒーのカウワ

15世紀、イエメンではカフワと呼ばれる飲み物が流行しました。
コーヒーの実以外のものを使った飲料もありましたが、コーヒーの実を乾燥させて、コーヒー豆(種子)の外側の果肉や殻の部分を煮出したもの(キシル)と、コーヒー豆を含んだ実を炙ってから煮出したもの(ブン)に大別されるようになったといいます。

このカフワは、イスラム教の神秘主義者であるスーフィーが修行の際に眠気覚ましや覚醒作用を持つ飲み物として、用いたことでまたたく間に広まっていきました。16世紀初頭には、メッカやメディナ、カイロで、カフワを飲みながら礼拝をおこなうスーフィーたちの姿が見られたといいます。

ほどなく一般庶民にも知られるようになり、眠気覚ましあるいは嗜好品として飲まれるようになったカフワは、飲酒の禁じられているイスラム世界において、刺激的な飲み物として瞬く間に人気となって、カフワの淹れ方や飲み方の作法が生まれ、裕福な邸宅には専用のコーヒー室が設けられたといいます。

その中で前述のように、1500年頃にはメッカで「カフェハネ」と呼ばれるコーヒーハウスが誕生。1510年にはイスラム世界の一つの中心であったマムルーク朝の首都カイロにも伝わって、多くのカフェハネが出現。庶民たちの社交の場となったのです。

オスマン帝国にもコーヒーが伝来

18世紀のカイロのカフェハネ
 
 
イスラムの超大国、オスマン帝国にコーヒーが伝わったのは16世紀です。マムルーク朝を滅ぼした皇帝セリム1世が持ち帰ったともいわれます。

1554年に二人のシリア人がオスマン帝国の首都・イスタンブールにカフェハネを開いたことをきっかけに、イスタンブールの街にもカフェハネが普及しました。

イスタンブールでは、コーヒー文化が花開き、手回し式の焙煎機やコーヒーミルもこの時代に発明されたといわれています。

さらにこの頃、イエメンも支配下に置いていたオスマン帝国は、コーヒーの栽培を奨励し、イエメンで収穫されたコーヒーの実は、イスタンブールやカイロをはじめとしたオスマン帝国とイスラム世界に広く運ばれるようになり、コーヒーが広まるようになったのです。

反発を受けながらも浸透したコーヒー

その一方で急速に普及したカフワに対しては反発も生まれました。そもそもカフワはスーフィーたちが広めた習慣で、正統派のイスラム学者は彼らを快く思っていなかったといいます。

スーフィーの儀式では歌い踊り、時には薬物を使うなど、異端と紙一重の部分もあったといいます。また、クルアーンでは炭を食することが禁じられているため、炙ったコーヒーから淹れたカフワの飲用はクルアーンやスンナからの逸脱と考える正統派の学者もいました。

カフワの飲用自体ではなくカフェハネの存在が問題と考えられてもいました。実際、カフェハネの中には酒類を提供したり音楽や賭博などイスラームにおける禁止行為が行われているところもあり、風紀を乱す存在とされたこともあります。

また、カフェハネにはさまざまな市民が集まり、噂話から政治に対する不平不満までさまざまな話題が飛び交ったことから、為政者の中には不穏分子の温床になりかねないと考える者もいました。

こうしたことから、たびたび飲用禁止令やカフェハネ禁止令が為政者により出されましたが、どれも短期間で形骸化しました。

もっとも激しい禁止令は、17世紀半ばイスタンブールで出されたコーヒー禁止令で、一説には3万人が処刑されたとされますが、これはどちらかというと、権力争いに利用されて、政敵の排除がこの禁止令にかこつけて行われたようです。

こうした反発もありながら、コーヒーはイスラム世界に根付いていき、やがてこのコーヒーとカフェハネ(コーヒーハウス)は、ヨーロッパへと広まっていくことになります。
 
 
2023.8.29
CROWD ROASTER