江戸時代、コーヒーは長崎の出島に入ってきており、オランダ人と交流した日本人たちは、コーヒーを好んでいた者もいたという。しかし、彼らが記録を残してはいない。
一方、コーヒーを実際に飲んで感想まで記した最初の記録は、江戸の文人として有名な蜀山人(しょくさんじん)こと、大田南畝のものだといわれる。
一方、コーヒーを実際に飲んで感想まで記した最初の記録は、江戸の文人として有名な蜀山人(しょくさんじん)こと、大田南畝のものだといわれる。
日本中にその名を知られた太田南畝の体験
大田南畝(国立国会図書館蔵)
江戸中期に活躍した太田南畝(生没年:1749~1823年)は、狂歌の名人として一世を風靡し、戯作者、また学者としても知られた文化人。
平賀源内や山東京伝、版元の蔦屋重三郎や浮世絵師の喜多川歌麿などとも交流のある、華やかな江戸の出版界の中心人物であり、下級武士であった南畝を中心にして、武士や町人たちの身分を越えた交流が生まれ、さまざまな文芸が花開いた。
また、同時代の事件、風聞など、目にしたあらゆる事物を書き残し、当時のさまざまな風俗や出来事を後世に伝えた功績も大きい。
そんな好奇心旺盛な南畝だからこそ、長崎のオランダ船でコーヒーを出され、果敢にチャレンジして、その感想を記したのだった。
では、その感想はというと、1805(文化2)年に出版された『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』からその部分を引いてみる。これは出版前年の8月9日の出来事として記録されている。
平賀源内や山東京伝、版元の蔦屋重三郎や浮世絵師の喜多川歌麿などとも交流のある、華やかな江戸の出版界の中心人物であり、下級武士であった南畝を中心にして、武士や町人たちの身分を越えた交流が生まれ、さまざまな文芸が花開いた。
また、同時代の事件、風聞など、目にしたあらゆる事物を書き残し、当時のさまざまな風俗や出来事を後世に伝えた功績も大きい。
そんな好奇心旺盛な南畝だからこそ、長崎のオランダ船でコーヒーを出され、果敢にチャレンジして、その感想を記したのだった。
では、その感想はというと、1805(文化2)年に出版された『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』からその部分を引いてみる。これは出版前年の8月9日の出来事として記録されている。
紅毛船にて「カウヒイ」といふものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず
当時としてはかなりのグルメであったという南畝ではあったが、流石に初めて飲むコーヒーの味はなかなか苦いものだったようだ。
なぜコーヒーを飲めたのか?
さて、いくら有名文化人とはいえ、長崎でオランダ船に乗り込むとは、厳しい対外政策が採られていた当時できることではない。
なぜ南畝がコーヒーを飲む機会を得たかといえば、この当時、彼が長崎奉行所に勤める役人であったからである。
下級の幕臣の家に生まれた南畝は、学問に秀でて文芸の分野で有名人となったが、昼間は幕臣としての仕事をこなしていた。
そして、41歳の時に老中・松平定信が人材登用の手段としてはじめた「学問吟味」を受験し、下級武士の部門で主席で合格し、幕府中枢の財政部門である支配勘定に取り立てられたのだった。
その後、53歳で大坂銅座に、56歳で長崎奉行所勘定所に派遣され、長崎には1年間滞在。この間に、オランダ船でコーヒーを味わう機会に恵まれたというわけだ。
ちなみに、銅の鋳造を管轄する銅座、オランダ貿易を管轄する長崎奉行所という、役得の多い役職を歴任した南畝だが、私財を肥やすことは全くない、清廉な役人であったという。
なぜ南畝がコーヒーを飲む機会を得たかといえば、この当時、彼が長崎奉行所に勤める役人であったからである。
下級の幕臣の家に生まれた南畝は、学問に秀でて文芸の分野で有名人となったが、昼間は幕臣としての仕事をこなしていた。
そして、41歳の時に老中・松平定信が人材登用の手段としてはじめた「学問吟味」を受験し、下級武士の部門で主席で合格し、幕府中枢の財政部門である支配勘定に取り立てられたのだった。
その後、53歳で大坂銅座に、56歳で長崎奉行所勘定所に派遣され、長崎には1年間滞在。この間に、オランダ船でコーヒーを味わう機会に恵まれたというわけだ。
ちなみに、銅の鋳造を管轄する銅座、オランダ貿易を管轄する長崎奉行所という、役得の多い役職を歴任した南畝だが、私財を肥やすことは全くない、清廉な役人であったという。
幕末の渋沢栄一による感想
江戸時代の書物にコーヒーについて述べたものは散見されるものの、飲用した記録というのは存在しないようだ。
それが覆るのは幕末、日本人も海外へ使節として、また留学生として渡航することになってから。これらの人々の記録には、渡航の際の食事について述べたものも多く、珍しい洋食についての記事は多い。
当然その中には、コーヒーも出てくる。その中から、有名人をひとりあげるとすれば、日本資本主義の父といわれる、渋沢栄一がいる。
それが覆るのは幕末、日本人も海外へ使節として、また留学生として渡航することになってから。これらの人々の記録には、渡航の際の食事について述べたものも多く、珍しい洋食についての記事は多い。
当然その中には、コーヒーも出てくる。その中から、有名人をひとりあげるとすれば、日本資本主義の父といわれる、渋沢栄一がいる。
幕末には幕府に仕えていた渋沢栄一は、慶応三年(1867)、徳川昭武に随行してフランスへと渡った。横浜から乗り込んだフランス船の食事を記した中に「食後カッフェーと云う豆を煎じたる湯を出す。砂糖牛乳を和して、之を飲む。頗る胸中を爽やかにす」と感想を書いている。
西洋文化に多少慣れた時代背景もあるのか、渋沢栄一のコーヒー体験は最初からいい印象である。
ちなみに渋沢は、フランス滞在中に日本で明治維新が起きたことを知り、帰国して、日本の近代化に邁進するのであった。
西洋文化に多少慣れた時代背景もあるのか、渋沢栄一のコーヒー体験は最初からいい印象である。
ちなみに渋沢は、フランス滞在中に日本で明治維新が起きたことを知り、帰国して、日本の近代化に邁進するのであった。