STORY

イギリス社会を変えたコーヒーハウス文化

17世紀のイギリスの政治・文化に多大な影響

フランスで花開いたのがカフェ文化であるなら、ドーバー海峡を渡ったイギリスで17世紀後半からの100年間、社会に大きな影響力を誇ったのが、コーヒーハウス文化である。

コーヒーハウスは、文字通り、アラブ世界から伝播してきたまだ物珍しいコーヒーを飲むことができる店、喫茶店のことであり、1550年代にトルコのコンスタンティノープルにはじめて出現したといわれる。

そこからヴェネツィアをはじめとしたイタリア、フランス、イギリスへとコーヒーとコーヒーハウスが伝えられた。

このようにコーヒーが飲める店としては欧州各地に存在したが、世界史において「コーヒーハウス」とは、17世紀後半のイギリスにおいて流行したコーヒーハウスを指す。
 
<コーヒーショップの店内の様子。長テーブルにコーヒーを飲む客たちがパイプ片手に陣取っている。左のカウンターからコーヒーがサーブされており、奥の暖炉ではコーヒーポットが温められている。1700年ごろの絵画(Trustees of the British Museum蔵)

なぜならそこでは、独自の文化を形成し、当時のイギリスの経済・社会・文化に大きな影響を与えたからである。現在は、紅茶の国のイメージがあるイギリスで、そうしたコーヒー文化が生まれたというのは、さらに興味深い。

現代ドイツの著名な哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、ハンナ・アーレントが提示した「公的領域」にヒントを得て、近代市民がコーヒーハウスや読書会などで対等に議論したことを「公共圏」と呼んだ。

誰もが参加できて、自律的な議論により世論が形成される場である「公共圏」。イギリスでのコーヒーハウスの流行は、こうした評価を得るほどに、社会構造の変化をもたらすような大きな影響をもたらしたのである。

どんなコーヒーの飲み方がされていたのか?

さて、イギリスにおけるコーヒーハウスの発祥やその隆盛についてを語る前に、17世紀後半から18世紀にかけて、ここでどのようにコーヒーが飲まれていたのかを少しだけ見てみたい。

ヨーロッパに先んじてコーヒーが広く飲まれたイスラム圏では、コーヒー豆を煎ってから砕き、これを水から煮出す方法が一般的だった(はじめは豆とまわりの殻も一緒に煎っていたが、ヨーロッパに伝わる頃には豆だけを煎る形となっていた)。

17世紀後半には、トルコやアラブでコーヒー専用のポットや鍋が作られ、これで数人分をまとめて煮出すことが行われていた。トルコのコーヒーハウスでも、こうした方法で抽出されており、これがヨーロッパに伝えられたと考えられている。

なお、現在もトルココーヒーは、ジェズヴェ(イブリック)と呼ばれるコーヒーポットに、粉と砂糖、水を入れて煮立ててつくられる。

ヨーロッパでは、当初、砂糖は輸入量も少なく非常に高価なもので、ヴェネツィアでは砂糖ではなく香辛料を入れていたという(アラブでも香辛料を入れる飲み方があった。ただし東南アジア産の香辛料もとても高価だった)。

この砂糖の入手において、イギリスはカリブ海植民地という供給元を持っていた。プランテーションを開発し、奴隷を送り込むことによって砂糖を増産したイギリスは、17世紀後半には、大量の砂糖を輸入するようになった。

こうしてコーヒーハウスでは、コーヒーと砂糖というエキゾチックな組み合わせを人々が楽しむようになった。さらにタバコも嗜まれたので、三角貿易による商品は、ここで人々の暮らしに入っていくことになる。

コーヒーハウスの隆盛

イギリス最初のコーヒーハウスは、ピューリタン革命の最盛期である1650年にユダヤ人のジェイコブズという人がオックスフォードに開いた。はじめは二日酔いを和らげる薬効があるとして飲まれたという。

ロンドン最初のコーヒーハウスは、1652年、商人エドワーズのギリシア人の召使いパスカ・ロゼという男がロンドン塔の西北、セント・マイケル小路に開いた店とされる。1656年、フリート街にジェームズ・ファーという男がレインボー・コーヒーハウスが開店、こちらは有名となって多くの人が訪れた。この後、一気にコーヒーハウスは増加し、18世紀初頭にはロンドン市内で、およそ3000の店があったという。

情報センターとしての役割

<エクスチェンジアレーという通りにあったギャラウェイ・コーヒーハウス。左の入り口に看板を出している>
 
17世紀のロンドンに暮らし、日記作家として有名なサミュエル・ピープスは、海軍省の高官であったが、赤裸々にその生活を記していることで知られる。

その日記によれば、ロンドンの王立証券取引所近くのお気に入りのコーヒーハウスに週3回以上、多い場合には1日に2回訪れていた。約束した友人や同僚に会うため、または単に貿易や政治の話を聞くためで、情報収集をしていたのである。
 
17世紀中期から力を蓄えてきた新興ブルジョワジーの経済活動にとって、コーヒーハウスはビジネスの情報がやり取りされるセンターの意味があった。

宮廷や議会に出入りする貴族や有力者から情報を得て、商人たちは情報交換を行い、場合によっては取引自体もこの場で行われた。例えばロンドン、コーンヒルのギャラウェイ・コーヒーハウスでは船の売買の取引が独特な方法で行われ、砂糖、コーヒー、材木、スパイス、茶などもそれぞれ別のコーヒーハウスで取引された。同じくコーンヒルのジョナサン・コーヒーハウスでは、株取引が行われていた。ここでは、南海会社という貿易商社の株が高騰したのちにバブルが弾けて、当時大きな問題となった(1720年の南海泡沫事件)がその舞台だったことで有名だ。

コーヒーハウスからは、保険業も生まれた。ロイズ・コーヒ-ハウスは、1692年ごろから船舶情報を掲載した『ロイズ・ニュース』を発行し客に提供し、海上保険を取り扱うようになった。当時、保険は金融業者らが個人で引き受けたが、海上輸送のようなリスクが大きいものは、個人では引き受けが難しく、ロイズに集う引受業者が共同で引き受けるようになった。現在のロイズ保険組合や、ロイズと呼ばれるロンドンの保険市場は、コーヒーハウスに発祥したのである。

このように、どのコーヒーハウスに行けば、どのような情報を得られるのかがはっきりと決まっていた。これは政治の党派でも同じことがいえた。

政治・経済情報が集まりジャーナリズムが登場

<18世紀にロンドンで刊行されていた代表的な日刊紙『スペクテイター』1711年6月4日発行。コーヒーショップで楽しめた雑誌の一つ(大英図書館蔵)>
 
コーヒーハウスは1ペニーで入場でき、コーヒーも1ペニーと安価で、男性であれば誰でも入ることができた。そして、自由に議論をかわすことのできた場であった。

ピューリタン革命の余波が残っている17世紀後半、コーヒーハウスは政治を論じ、権力を批判するという言論の自由が最も大きな魅力となった。ここで世論が形成されたといわれるゆえんである。やがて、党派はそれぞれひいきにしているコーヒーハウスに集うようになる。

こうした政治と経済の情報を仕入れることができる場がコーヒーハウスであった。そして、こうした情報を取りまとめて印刷する新聞・雑誌が続々と誕生し、コーヒーハウスの店内に置かれて読めるようになった。また、新聞・雑誌を発行するジャーナリストはコーヒーハウスで情報を得た。コーヒーハウスこそが、ジャーナリズムの登場に大きな役割を果たしたのである。

17世紀後半から18世紀前半まで、ロンドンのコーヒーハウス店内には貴顕紳士から、イカサマ師まで種々雑多な人間が集まった。政治論議の一方で詩や劇の批評や文学論が戦わされ、一方では商取引が行われ、さまざまな情報が行き交った。「コーヒーハウス文化」が開花したのである。

しかし、こうしたコーヒーハウスの機能は、広く開かれた場ではなく限定した会員だけが集うクラブに取って代わられていく。その一方で、19世紀にはコーヒーハウスは、労働者たちが集い、新聞・雑誌を読む場として変容していった。
 
 
参考文献:小林章夫『コーヒー・ハウス 都市の生活史ー18世紀ロンドン』駸々堂出版、昭和59年